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米騒動研究ブログ

米騒動について、複数の書き手によるブログです。これまでの研究を紹介したり、ネット記事にコメントしたりとのんびりやっていきます。

井本三夫氏による『女一揆の誕生─置き米と港町』(勝山敏一著)書評の紹介 

                                                   斉藤正美

 桂書房代表である勝山敏一氏の『女一揆の誕生─置き米と港町』(桂書房、2010年)については、「米騒動のことをこれからは「女一揆」と呼ぼうではないか――斉藤正美氏の提案があったのは、二〇〇八年、私が本書を書き始めた頃であった。」(「はじめに」)と筆者の名前が突如言及されている。この点についての違和感はすでにブログにも書いているところであるが、女一揆を強調する際にステレオタイプ的な表現である「井戸端会議」を何度も持ち出し強調している点や、職業や地位、階層などに頓着せず、性別のみが突出して強調される点など違和感を感じる点は他にも見られた。

 この本は、ジャーナリズムで紹介されている以外に、専門的な見地からの書評がどこにも書かれていないように思われる。そのこともあり、学会誌に発表された井本三夫氏による勝山本の書評について、その概略だけでも紹介しておくのも意味があることだと考えた。
 
 実は、あれほど耳目を騒がせた米騒動だが、大正期米騒動からも九四年が経過した現在、米騒動を専門としている研究者の層が極めて薄くなっている。米騒動五〇年の一九六八年頃が研究のピークであり、その後急に関心が薄れ、今では富山県内からの発信が目立つ状況になっている。そして、米騒動については、誤った事実や知見が流されても誰からも指摘されることがなく、無法地帯に近いという憂慮すべき事態に陥っている。

 歴史研究は時代区分に敏感で繊細な配慮をするため、近世から近代にかけて北陸地方で起きた米騒全般をとりあげている勝山本について論評できるのは、近代を中心にしつつ明治期も射程に入れ、地域的にも全国、東アジアを視野に入れて取り組んでおられる井本三夫氏しかおられないのではないかと思う。井本氏はいうまでもなく、米騒動研究の第一人者である。実際、勝山氏本の書評については、筆者が知る限り、井本氏のものしかない。

 なお、勝山氏は、これまで『北前の記憶』『水橋町(富山県)の米騒動』(いずれも井本三夫編、桂書房刊)など井本氏による聞き書き証言集の刊行において、企画立案、談話のテープ起こしをはじめ、語り手の肖像や当時の暮らしを映し出す写真などを一軒一軒まわって借り受けるなどご苦労を厭わぬ編集をなさった方でもある(上述書「あとがき」)。
 

 前置きが長くなったが、以下は、井本三夫氏による「勝山敏一『女一揆の誕生─置き米と港町』について」と題する書評(『北陸都市史学会誌』17号2011年8月掲載)を筆者がまとめたものである。

 まず、井本氏は、勝山本には以下の2つの主題があるとする。

1.  「女一揆」という範疇の提唱
 
2. 「置き米」と呼ぶ仕法の存在の指摘

 そして書評では、1.「女一揆」という範疇の適切性を問うとともに、2.「置き米」と呼ぶ仕法の解釈の妥当性を検討している。以下、順をおってその論旨を示す。

 1.「女一揆」の範疇について

 井本氏は「女性の騒動参加度を決めているのは働く階層の家庭内分業であって、性差そのものではないから、富山県でも「女性だけ」の米騒動は、漁業地帯(広く言って海岸部)以外では稀である。」とし、それにもかかわらず、勝山氏が広く「女一揆」が起きていたように書くのは以下のように警察資料に依拠しているからだと以下のように評す。


大正七(一九一八)年米騒動の際に富山県警がでっちあげた、「紛擾沿革一覧表」なるずさんな統計が、「明治以降の米騒動」と題して『高岡新報』(同年九月初め)に転載され、大原社研の米騒動史料にも入って井上・渡辺編『米騒動の研究』第一巻一六九頁にも転載され(これは明治二〇年代の11件をまるまる欠落させているひどいミスプリントで、使いものにならない)、更に戦後『富山県警察史』六一五頁に転載された際にも間違った解説をつけたので、「富山県では米騒動が明治以来一貫して殆どは女のみで行われる」と誤解する者が続出した。残念ながら本書の著者もその被害者の一人らしい。
評者は明治期米騒動の史料集の稿を桂書房に預けてあるといったが、それと比べて見ると縣警の「明治以降の米騒動」に漏れている事件が、ぞろぞろ一七件も出て来た。これ等を加えると日清戦争前は四二件以上もあったことが判り、「婦女だけ」なのはそのうちの七件に過ぎず、その六件までが海岸地帯の漁民である。富山県警察部調「紛擾沿革一覧表」と、「明治以降の米騒動」と題したその転載(大正七年九月初めの『高岡新報』、大原社研米騒動史料中、井上清・渡辺轍編『米騒動の研究』第一巻一六九頁、『富山県警察史』六一六頁)はすべて、日清戦前に関する限りずさん極まりない出鱈目である。

そして、なぜ警察資料が女性を強調するのかについて、以下のように説明する。

その上これら文書には、「土下座」し「ひざまずいて取りすがり」「哀願」、「不穏の状なし」などと、騒動勢殊に女性のことを卑屈・無抵抗なものに描く語が随所に挿入されている。そのような「婦女のみ」として描くことによって、士族出身者中心の構成で始まった警察社会の差別・男尊女卑感覚をくすぐり、大正七年米騒動の火元と思われていた富山県の、警察幹部たちに手抜かりはなかったと、中央・上層に対して弁明することが出来ると考えたのであろう。


 これらから井本氏は、勝山氏が女一揆に関する主張は誤っていると次のように述べている。

女性たちによる徒党蜂起という形はどこより富山県にくっきりと残っていた」(二六二頁)とは言えない。(一二八頁のように惣町一揆の影響を考えるなら、近世史の人に訊かれるのはよかろうが、)「男だけの一揆だったものが、惣町一揆を経て、男女一揆になり、ついに女だけの一揆になった」(二一六頁)、とは言えないのではないか。(中略)
「殆ど婦女のみ」である米騒動が系統的に続くことは、漁民(広く云って海岸部の場合)以外、殆ど見られないのである。

 したがって、「米騒動が「殆ど女のみ」の場合を「女一揆」と名づけても、時代によらず富山県か否かによらず、漁民中心の海岸部以外では殆ど使えないと思われる。」と井本氏は結論づけるのである。


2.「置き米」と呼ぶ仕法の存在の指摘


 第二のテーマである「置き米」について移ろう。置き米とは、「米の高値に苦しむ民衆が、移出米の荷主・船主に、その何パーセントづつかを置いて行かせた慣習」のことである。

  勝山氏は、「置き米」仕法の出発点を『寺泊町史・資料編2 近世』の中に見いだしたとする(三章江戸期の女一揆と置き米)。白河藩領の飛地だった寺泊に宝暦一〇(一七六〇)年から明治初年まで町役人が書きためた御用留(ごようとめ)帳が遺されており、その天明三(一七八三)年七月に、「下々の者どもが暮らしに難渋していると聞こえ」、「小前の者どもが難儀をしないよう」、「売買方百俵につき米三俵 船問屋にて引き残し 米三俵町仲買売方にて引き残し」、「小手買いの者ども買い方不自由に相成り候節は、右囲い米時々の相場に一升につき四文安売り出させ申すべく」と、町役人が通達した記録があるとする(一一六-一二〇頁)。勝山氏は、天明三年七月寺泊についてのこの記述が、民衆が困窮した際に施米を行うなどのために、荷主・船主に米の何%かを置いて行かせる「置き米」仕法の始まりだと推定する。

 だが、井本氏は、この天明三(一七八三)年寺泊を「置き米」の起源とみなす勝山氏の解釈に、疑問を呈している。この「引き残し」は、「新潟町のような民衆の下からの力で慣習化した「置き米」仕法ではなかったのではないか」とする。井本氏があげる理由の第一は、天明三(一七八三)年以前の寺泊には騒擾の記録がなにもないことである。井本氏は寺泊最初の米騒動を天保五(一八三四)年としている。井本氏は、寺泊で初めて米騒動が起きたのは、勝山氏が民衆の力がもたらした「置き米」制度が始まったとするその約五〇年後と見ているのである。だから、天明三年に民衆の力による「置き米」はあろうはずもないとする。

 井本氏は天明三(一七八三)年寺泊では「置き米」仕様が始まっていないとする第二の理由として、寺泊には、宝暦一〇(一七六〇)年以来、幕府が命じてできた囲籾制度(万が一に備えた籾の備蓄)があることを挙げている。勝山氏が「置き米」起源とする年より約二〇年前から幕府のお達しがあって米を備蓄する仕組みがあったとする。

 寺泊は、「人口を養うには農地が狭すぎる」ために、「米の移出港でなく中継港に他ならなかった。だから最大の飢饉期に「囲い米」するには通る米から「引き残す」よりほかがなく、町役人が予防的なパターナリズム(温情主義)を発揮したのではないだろうか」というのが井本氏の分析である。

 さらに、それから三年後の天明七年にも、藩の命令で津留めし、同じ「引き残し」をしたということを挙げ、その頃もまだ「置き米」という語が現れていないことから、寺泊の「引き残し」が民衆の下からの力で生じたものではなく、「上」からの管理上の対処法であると井本氏は分析している。

 そして、井本氏は、「新潟で騒動・米価騰貴続きの文政一二年に誕生した「置き米」仕法が、天保期に寺泊、嘉永期に柏崎へと徐々に西に伝って行ったのであろう」と、文政一二(一八二八)年と勝山氏より五〇年ほど遅い時期に、勝山氏の言う寺泊ではなく、その直前に米騒動が起きていた新潟の町で「置き米」が始まったとみなすのである。以下、引用する。

 天保一四(一八四三)年に幕領になった新潟町では、初代奉行川村修就が幕府に送った手紙に、長岡藩時代の天保八年に五%弱の「増し掛り銭」、四~八%の「置き米」がとられたとあり、文政一二(一八二八)年・天保四年・天保七年にも行われていたという。また池政栄『越後と佐渡の一揆』で嘉永三(一八五〇)年%、同四年、元治二(一八六五)年にも行われたと判る。新潟では明和五(一七六八)年に有名な湊騒動があり、文政一一年一〇月に米騒動があった直後の一二年に、この「置き米」が始まる。したがってこれが、民衆の下からの力で生じた「置き米」仕法の始まりではないだろうか。


さらに、明治期越中・越後の「跳ね米」・「刎ね銭」「置き銭」については、勝山氏は、以下の七件を本にとりあげている。だが、井本氏は、この七件のうち最初の富山県の三件(魚津、水橋、伏木)は、「欧州の社会史研究でtaxation(タクサシュオン) populaire(ポプピュレール)(民衆的徴税)と呼ばれているものの日本版に当たる」と一九八〇年代から富山県内で創設した米騒動史研究会において、魚津市や富山市で講演や研究会を重ねるなかで、当時から主張していたものだと述べる。さらに、これらについては、井本氏がまとめ、明治期米騒動資料集として勝山氏が代表をつとめる桂書房か出版準備註の原稿の中に含まれているのだともいう。

明治二二年一〇月の魚津では、五合米という名で〇.五%、
同 二三年一月の水橋町で、跳ね米 一.〇%
同 二三年七月の伏木町で、跳ね米 一.〇%
同 二三年四月の能生町で、醸し出し(義損金)〇.二%
同 二三年五月の直江津町、刎ね銭 二.〇%
同 二三年八月の柏崎町で、跳ね米 一.七%
同 二三年八月の新潟市で、置き銭 二.〇%

 そして井本氏は、次のような指摘を行う。

注意すべきことは、それらすべての名がもはや幕藩制期の「置き米」ではなく、「跳ね米」・「刎ね銭」・「醸し出し」で、「置き米」仕法の起源地と思われる新潟港でさえ「置き銭」と変わっていることである。
(中略)
また七例中三例までが、米でなく銭に替わっている点も無視できない。能生町での「醸し出し」というのも八七頁に説明されているところを見ると、義捐金を(増殖のため米移出に投資はするが)分配は金銭でするものである。石高制の時代が終わって通貨の役割が徹底する近代には「米から」「船荷から」ではなく、移出行為・商行為そのものに(民衆的に)課税することになっているのである。そして義捐金・寄付ということなら、前記七例以外の騒ぎが起こった又は起りそうだったすべての町村で、また上記の例に挙げられていない明治八年・九年・一一年・一三年・一八年・明治三〇~三一年・明治四〇年・四五年の各騒動年に行われ、首長などが仲介する形で、移出米商・船主たちに真っ先に要求されたのであった。これらも亦すべて騒動の圧力下に行われていたのだから、民衆的徴税のなかに数えられよう。

 さらに井本氏は、「明治中期、津留も置き米も江戸期のまま現役であったことを確認したわけだが」(二四六頁で)、という表現は誤解を招く、と勝山氏の主張に異を唱える。そして「置き米」が米から金銭に変わっていることは、移出行為そのものに(民衆的に)課税するという意味であるゆえに、「より一般的で近世・近代双方に使える用語を導入する必要がある。欧州の社会史で用いられてきた「民衆的徴税」(taxation(タクサシュオン) populaire(ポプピュレール))という術語を紹介した所以である」とも述べる。
そして、「置き米」から「跳ね米」「醸し出し」という用語の変化とその後の義捐金、寄付については、救済法として一貫したとらえ方が必要と井本氏は次のようにも述べている。

義捐金・寄付ということなら、前記七例以外の騒ぎが起こった又は起りそうだったすべての町村で、また上記の例に挙げられていない明治八年・九年・一一年・一三年・一八年・明治三〇~三一年・明治四〇年・四五年の各騒動年に行われ、首長などが仲介する形で、移出米商・船主たちに真っ先に要求されたのであった。これらも亦すべて騒動の圧力下に行われていたのだから、民衆的徴税のなかに数えられよう。

そして最後に、井本氏は、「置き米」仕法について、以下のようにまとめている。

「置き米」仕法は、農業が不足の中継港である寺泊の天明飢饉期のものを予防的パターナリズム(温情主義)によるとして除外する場合にも、文政一二年には新潟湊からは始まっていたことは確かであろう。越中に広まるのは明治期になってからと思われ、その頃には金銭で出す形や寄付・義捐金の形が増え、大正七年には米で出したのは魚津だけになっていた。近世の越後で生まれた「置き米」の伝統が近代まで系統的に継承されていたと言えようが、越後・越中・能登以外の積出し港にどの程度一般的だったかは、調査する必要があろう。