米騒動研究ブログ

米騒動について、複数の書き手によるブログです。これまでの研究を紹介したり、ネット記事にコメントしたりとのんびりやっていきます。

米騒動・大戦後デモクラシー100周年研究会(第1回)から、富山米騒動について思う

長らく放置していましたが、米騒動・大戦後デモクラシー100周年研究会(第1回)のご案内(第1報)、というブログ記事を拝見し、一言書くことにしました。


それを見ると、「1917年から急増していることが、最近指摘されています。したがって米産地である移出地帯の富山県の18年夏の移出反対を米騒動のはじまりとして来たのは根拠がなく、事実は大消費(移入)地帯である鉱工業地帯・大都市で一年も前から始まっていたことになります。」とあります。

これは、1918年(大正9年)の米騒動は、富山県の東部沿岸地帯から始まった、というこれまでの定説とは異なる見解となります。

まだ詳しいことはわかりませんが、とても興味深い研究会のようなので、リンクして、ひとまずのお知らせといたします。

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<主旨>

第一次大戦末の米騒動、朝鮮の三・一独立運動、中国の五・四運動の100周年が近づいています。実質米価率(米価上昇率を賃金上昇率で割ったもの)の急騰、それに応ずる鉱工業地帯での賃上げ騒擾(争議・暴動)、大都市での消費者運動が1917年端境期はざかいきから急増していることが、最近指摘されています。したがって米産地である移出地帯の富山県の18年夏の移出反対を米騒動のはじまりとして来たのは根拠がなく、事実は大消費(移入)地帯である鉱工業地帯・大都市で一年も前から始まっていたことになります。そしてそのトップをきるのが筑豊炭田、例えば福岡炭坑の暴動(17年8月)です。したがって北九州は米騒動の始動地でもあったわけで、そこから関門・広島湾にかけてのシベリア出兵の乗船地帯で米騒動が最も激化し、多くの炭坑労働者の生命の犠牲の上に、寺内内閣が倒され大戦後デモクラシーの扉が開かれたことは大きな意義をもつものです。100周年研究会をこの地域から始めさせて頂く所以です。こぞってご参集下さることを期待しております。

<主催>

米騒動史研究会 九州歴史科学研究会

<日程と会場>

2017年10月7~9日(10月7日12時開場、13時開会)

北九州市立大学北方キャンパス(福岡県北九州市小倉南区北方4-2-1)

<報告・講演(一部題目は仮題)>

・開会あいさつ  九州歴史科学研究会 森丈夫

米騒動百周年と研究における新局面  井本三夫(米騒動史研究会)

・日本の米騒動と中国          堀地明(北九州市立大学)

米騒動山口県・長州閥        井竿富雄(山口県立大学)

・近代における北九州労働者の社会的・経済的特質     土井徹平(北九州市立大学)

・ドイツ史からのコメント       今井宏昌(九州大学)

・朝鮮の米騒動期と三・一独立運動   渡引礼(米騒動史研究会)

・東アジアの大戦後デモクラシー(五・四運動期中国・東南アジア・シベリア・日本国内など)                              

各氏分担

・ 閉会の挨拶   北九州市立大学 堀地明



他にもご発表を依頼中です。

井本三夫著『水橋町(富山県)の米騒動』(桂書房)の書評(『歴史評論』2011年8月号)

かつて『歴史評論』に掲載していただいた井本三夫著『水橋町(富山県)の米騒動

水橋町(富山県)の米騒動

水橋町(富山県)の米騒動

の書評をこちらにアップしておきます。この著作は、初期米騒動はだれがどのようにして起こしたのか、これまで聴き取られてこなかった女性労働者の語りを丹念に聴き取った史料として非常に意義のあるものです。

Dropbox - 井本三夫『水橋町の米騒動』書評.pdf
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白虹事件について、現在の朝日新聞叩きから思うことを書きました。

http://d.hatena.ne.jp/discour/20140928

井本三夫氏による『女一揆の誕生─置き米と港町』(勝山敏一著)書評の紹介 

                                                   斉藤正美

 桂書房代表である勝山敏一氏の『女一揆の誕生─置き米と港町』(桂書房、2010年)については、「米騒動のことをこれからは「女一揆」と呼ぼうではないか――斉藤正美氏の提案があったのは、二〇〇八年、私が本書を書き始めた頃であった。」(「はじめに」)と筆者の名前が突如言及されている。この点についての違和感はすでにブログにも書いているところであるが、女一揆を強調する際にステレオタイプ的な表現である「井戸端会議」を何度も持ち出し強調している点や、職業や地位、階層などに頓着せず、性別のみが突出して強調される点など違和感を感じる点は他にも見られた。

 この本は、ジャーナリズムで紹介されている以外に、専門的な見地からの書評がどこにも書かれていないように思われる。そのこともあり、学会誌に発表された井本三夫氏による勝山本の書評について、その概略だけでも紹介しておくのも意味があることだと考えた。
 
 実は、あれほど耳目を騒がせた米騒動だが、大正期米騒動からも九四年が経過した現在、米騒動を専門としている研究者の層が極めて薄くなっている。米騒動五〇年の一九六八年頃が研究のピークであり、その後急に関心が薄れ、今では富山県内からの発信が目立つ状況になっている。そして、米騒動については、誤った事実や知見が流されても誰からも指摘されることがなく、無法地帯に近いという憂慮すべき事態に陥っている。

 歴史研究は時代区分に敏感で繊細な配慮をするため、近世から近代にかけて北陸地方で起きた米騒全般をとりあげている勝山本について論評できるのは、近代を中心にしつつ明治期も射程に入れ、地域的にも全国、東アジアを視野に入れて取り組んでおられる井本三夫氏しかおられないのではないかと思う。井本氏はいうまでもなく、米騒動研究の第一人者である。実際、勝山氏本の書評については、筆者が知る限り、井本氏のものしかない。

 なお、勝山氏は、これまで『北前の記憶』『水橋町(富山県)の米騒動』(いずれも井本三夫編、桂書房刊)など井本氏による聞き書き証言集の刊行において、企画立案、談話のテープ起こしをはじめ、語り手の肖像や当時の暮らしを映し出す写真などを一軒一軒まわって借り受けるなどご苦労を厭わぬ編集をなさった方でもある(上述書「あとがき」)。
 

 前置きが長くなったが、以下は、井本三夫氏による「勝山敏一『女一揆の誕生─置き米と港町』について」と題する書評(『北陸都市史学会誌』17号2011年8月掲載)を筆者がまとめたものである。

 まず、井本氏は、勝山本には以下の2つの主題があるとする。

1.  「女一揆」という範疇の提唱
 
2. 「置き米」と呼ぶ仕法の存在の指摘

 そして書評では、1.「女一揆」という範疇の適切性を問うとともに、2.「置き米」と呼ぶ仕法の解釈の妥当性を検討している。以下、順をおってその論旨を示す。

 1.「女一揆」の範疇について

 井本氏は「女性の騒動参加度を決めているのは働く階層の家庭内分業であって、性差そのものではないから、富山県でも「女性だけ」の米騒動は、漁業地帯(広く言って海岸部)以外では稀である。」とし、それにもかかわらず、勝山氏が広く「女一揆」が起きていたように書くのは以下のように警察資料に依拠しているからだと以下のように評す。


大正七(一九一八)年米騒動の際に富山県警がでっちあげた、「紛擾沿革一覧表」なるずさんな統計が、「明治以降の米騒動」と題して『高岡新報』(同年九月初め)に転載され、大原社研の米騒動史料にも入って井上・渡辺編『米騒動の研究』第一巻一六九頁にも転載され(これは明治二〇年代の11件をまるまる欠落させているひどいミスプリントで、使いものにならない)、更に戦後『富山県警察史』六一五頁に転載された際にも間違った解説をつけたので、「富山県では米騒動が明治以来一貫して殆どは女のみで行われる」と誤解する者が続出した。残念ながら本書の著者もその被害者の一人らしい。
評者は明治期米騒動の史料集の稿を桂書房に預けてあるといったが、それと比べて見ると縣警の「明治以降の米騒動」に漏れている事件が、ぞろぞろ一七件も出て来た。これ等を加えると日清戦争前は四二件以上もあったことが判り、「婦女だけ」なのはそのうちの七件に過ぎず、その六件までが海岸地帯の漁民である。富山県警察部調「紛擾沿革一覧表」と、「明治以降の米騒動」と題したその転載(大正七年九月初めの『高岡新報』、大原社研米騒動史料中、井上清・渡辺轍編『米騒動の研究』第一巻一六九頁、『富山県警察史』六一六頁)はすべて、日清戦前に関する限りずさん極まりない出鱈目である。

そして、なぜ警察資料が女性を強調するのかについて、以下のように説明する。

その上これら文書には、「土下座」し「ひざまずいて取りすがり」「哀願」、「不穏の状なし」などと、騒動勢殊に女性のことを卑屈・無抵抗なものに描く語が随所に挿入されている。そのような「婦女のみ」として描くことによって、士族出身者中心の構成で始まった警察社会の差別・男尊女卑感覚をくすぐり、大正七年米騒動の火元と思われていた富山県の、警察幹部たちに手抜かりはなかったと、中央・上層に対して弁明することが出来ると考えたのであろう。


 これらから井本氏は、勝山氏が女一揆に関する主張は誤っていると次のように述べている。

女性たちによる徒党蜂起という形はどこより富山県にくっきりと残っていた」(二六二頁)とは言えない。(一二八頁のように惣町一揆の影響を考えるなら、近世史の人に訊かれるのはよかろうが、)「男だけの一揆だったものが、惣町一揆を経て、男女一揆になり、ついに女だけの一揆になった」(二一六頁)、とは言えないのではないか。(中略)
「殆ど婦女のみ」である米騒動が系統的に続くことは、漁民(広く云って海岸部の場合)以外、殆ど見られないのである。

 したがって、「米騒動が「殆ど女のみ」の場合を「女一揆」と名づけても、時代によらず富山県か否かによらず、漁民中心の海岸部以外では殆ど使えないと思われる。」と井本氏は結論づけるのである。


2.「置き米」と呼ぶ仕法の存在の指摘


 第二のテーマである「置き米」について移ろう。置き米とは、「米の高値に苦しむ民衆が、移出米の荷主・船主に、その何パーセントづつかを置いて行かせた慣習」のことである。

  勝山氏は、「置き米」仕法の出発点を『寺泊町史・資料編2 近世』の中に見いだしたとする(三章江戸期の女一揆と置き米)。白河藩領の飛地だった寺泊に宝暦一〇(一七六〇)年から明治初年まで町役人が書きためた御用留(ごようとめ)帳が遺されており、その天明三(一七八三)年七月に、「下々の者どもが暮らしに難渋していると聞こえ」、「小前の者どもが難儀をしないよう」、「売買方百俵につき米三俵 船問屋にて引き残し 米三俵町仲買売方にて引き残し」、「小手買いの者ども買い方不自由に相成り候節は、右囲い米時々の相場に一升につき四文安売り出させ申すべく」と、町役人が通達した記録があるとする(一一六-一二〇頁)。勝山氏は、天明三年七月寺泊についてのこの記述が、民衆が困窮した際に施米を行うなどのために、荷主・船主に米の何%かを置いて行かせる「置き米」仕法の始まりだと推定する。

 だが、井本氏は、この天明三(一七八三)年寺泊を「置き米」の起源とみなす勝山氏の解釈に、疑問を呈している。この「引き残し」は、「新潟町のような民衆の下からの力で慣習化した「置き米」仕法ではなかったのではないか」とする。井本氏があげる理由の第一は、天明三(一七八三)年以前の寺泊には騒擾の記録がなにもないことである。井本氏は寺泊最初の米騒動を天保五(一八三四)年としている。井本氏は、寺泊で初めて米騒動が起きたのは、勝山氏が民衆の力がもたらした「置き米」制度が始まったとするその約五〇年後と見ているのである。だから、天明三年に民衆の力による「置き米」はあろうはずもないとする。

 井本氏は天明三(一七八三)年寺泊では「置き米」仕様が始まっていないとする第二の理由として、寺泊には、宝暦一〇(一七六〇)年以来、幕府が命じてできた囲籾制度(万が一に備えた籾の備蓄)があることを挙げている。勝山氏が「置き米」起源とする年より約二〇年前から幕府のお達しがあって米を備蓄する仕組みがあったとする。

 寺泊は、「人口を養うには農地が狭すぎる」ために、「米の移出港でなく中継港に他ならなかった。だから最大の飢饉期に「囲い米」するには通る米から「引き残す」よりほかがなく、町役人が予防的なパターナリズム(温情主義)を発揮したのではないだろうか」というのが井本氏の分析である。

 さらに、それから三年後の天明七年にも、藩の命令で津留めし、同じ「引き残し」をしたということを挙げ、その頃もまだ「置き米」という語が現れていないことから、寺泊の「引き残し」が民衆の下からの力で生じたものではなく、「上」からの管理上の対処法であると井本氏は分析している。

 そして、井本氏は、「新潟で騒動・米価騰貴続きの文政一二年に誕生した「置き米」仕法が、天保期に寺泊、嘉永期に柏崎へと徐々に西に伝って行ったのであろう」と、文政一二(一八二八)年と勝山氏より五〇年ほど遅い時期に、勝山氏の言う寺泊ではなく、その直前に米騒動が起きていた新潟の町で「置き米」が始まったとみなすのである。以下、引用する。

 天保一四(一八四三)年に幕領になった新潟町では、初代奉行川村修就が幕府に送った手紙に、長岡藩時代の天保八年に五%弱の「増し掛り銭」、四~八%の「置き米」がとられたとあり、文政一二(一八二八)年・天保四年・天保七年にも行われていたという。また池政栄『越後と佐渡の一揆』で嘉永三(一八五〇)年%、同四年、元治二(一八六五)年にも行われたと判る。新潟では明和五(一七六八)年に有名な湊騒動があり、文政一一年一〇月に米騒動があった直後の一二年に、この「置き米」が始まる。したがってこれが、民衆の下からの力で生じた「置き米」仕法の始まりではないだろうか。


さらに、明治期越中・越後の「跳ね米」・「刎ね銭」「置き銭」については、勝山氏は、以下の七件を本にとりあげている。だが、井本氏は、この七件のうち最初の富山県の三件(魚津、水橋、伏木)は、「欧州の社会史研究でtaxation(タクサシュオン) populaire(ポプピュレール)(民衆的徴税)と呼ばれているものの日本版に当たる」と一九八〇年代から富山県内で創設した米騒動史研究会において、魚津市や富山市で講演や研究会を重ねるなかで、当時から主張していたものだと述べる。さらに、これらについては、井本氏がまとめ、明治期米騒動資料集として勝山氏が代表をつとめる桂書房か出版準備註の原稿の中に含まれているのだともいう。

明治二二年一〇月の魚津では、五合米という名で〇.五%、
同 二三年一月の水橋町で、跳ね米 一.〇%
同 二三年七月の伏木町で、跳ね米 一.〇%
同 二三年四月の能生町で、醸し出し(義損金)〇.二%
同 二三年五月の直江津町、刎ね銭 二.〇%
同 二三年八月の柏崎町で、跳ね米 一.七%
同 二三年八月の新潟市で、置き銭 二.〇%

 そして井本氏は、次のような指摘を行う。

注意すべきことは、それらすべての名がもはや幕藩制期の「置き米」ではなく、「跳ね米」・「刎ね銭」・「醸し出し」で、「置き米」仕法の起源地と思われる新潟港でさえ「置き銭」と変わっていることである。
(中略)
また七例中三例までが、米でなく銭に替わっている点も無視できない。能生町での「醸し出し」というのも八七頁に説明されているところを見ると、義捐金を(増殖のため米移出に投資はするが)分配は金銭でするものである。石高制の時代が終わって通貨の役割が徹底する近代には「米から」「船荷から」ではなく、移出行為・商行為そのものに(民衆的に)課税することになっているのである。そして義捐金・寄付ということなら、前記七例以外の騒ぎが起こった又は起りそうだったすべての町村で、また上記の例に挙げられていない明治八年・九年・一一年・一三年・一八年・明治三〇~三一年・明治四〇年・四五年の各騒動年に行われ、首長などが仲介する形で、移出米商・船主たちに真っ先に要求されたのであった。これらも亦すべて騒動の圧力下に行われていたのだから、民衆的徴税のなかに数えられよう。

 さらに井本氏は、「明治中期、津留も置き米も江戸期のまま現役であったことを確認したわけだが」(二四六頁で)、という表現は誤解を招く、と勝山氏の主張に異を唱える。そして「置き米」が米から金銭に変わっていることは、移出行為そのものに(民衆的に)課税するという意味であるゆえに、「より一般的で近世・近代双方に使える用語を導入する必要がある。欧州の社会史で用いられてきた「民衆的徴税」(taxation(タクサシュオン) populaire(ポプピュレール))という術語を紹介した所以である」とも述べる。
そして、「置き米」から「跳ね米」「醸し出し」という用語の変化とその後の義捐金、寄付については、救済法として一貫したとらえ方が必要と井本氏は次のようにも述べている。

義捐金・寄付ということなら、前記七例以外の騒ぎが起こった又は起りそうだったすべての町村で、また上記の例に挙げられていない明治八年・九年・一一年・一三年・一八年・明治三〇~三一年・明治四〇年・四五年の各騒動年に行われ、首長などが仲介する形で、移出米商・船主たちに真っ先に要求されたのであった。これらも亦すべて騒動の圧力下に行われていたのだから、民衆的徴税のなかに数えられよう。

そして最後に、井本氏は、「置き米」仕法について、以下のようにまとめている。

「置き米」仕法は、農業が不足の中継港である寺泊の天明飢饉期のものを予防的パターナリズム(温情主義)によるとして除外する場合にも、文政一二年には新潟湊からは始まっていたことは確かであろう。越中に広まるのは明治期になってからと思われ、その頃には金銭で出す形や寄付・義捐金の形が増え、大正七年には米で出したのは魚津だけになっていた。近世の越後で生まれた「置き米」の伝統が近代まで系統的に継承されていたと言えようが、越後・越中・能登以外の積出し港にどの程度一般的だったかは、調査する必要があろう。

米騒動と朝鮮・韓国とのつながり 関西の図書館虫

                                 

 奥野達夫さんという方が自身のブログ「なんと万華鏡」において、「韓国KBSテレビから取材」という記事を書いておられます。なお、奥野さんは富山県民カレッジ「JE151 ’12セミナーふるさと富山再発見講座」の中で、米騒動の女たち」という講演もなさっておられます。

「インターネットのブログで両国の歴史的事実がわかったので」と書いておられるが、米騒動と朝鮮とのつながりについては、豊富な研究があるのをご存じだろうか。「韓国でも米騒動や投機が国内を大混乱にした」と奥野さんは、日本での米騒動と韓国の米騒動が関係していることを書かれていないが、当時朝鮮半島は日本の植民地であり、日本政府が朝鮮米の買い付けを行っていたので、韓国内で米の値が上がり、食べていけない韓国の人たちは、賃上げのストライキや米騒動を起こさざるをえなかったのです。

米騒動と韓国のつながりがあまり知られていないようなので、その点は、名著といわれる吉岡吉典「米騒動と朝鮮」を読んだらよいでしょう。日本朝鮮研究所から出ている『朝鮮研究』に連載されています。

41 1965-7米騒動3.1運動、在日朝鮮人の米騒動参加、朝鮮での物価騰貴と窮乏

45 1965-11シベリア出兵と朝鮮の米価騰貴、日本の米価対策と朝鮮

481966-3  米騒動の朝鮮への波及

561966-11  朝鮮での米騒動対策、朝鮮民衆にとっての「米騒動」の意義

吉岡さんは他にも、31運動90周年に思う」(日本アジア・アフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会AALA』第一号200961)など書いてい朝鮮史の専門家だそうです。31運動は、米騒動の影響下に翌1919年に起った朝鮮独立運動で、奥野さんはそれとの関係にも全く触れていません。

米商売の家系に育った私らは、「朝鮮米は日本米と同じジャポニカや、あこが植民地になったお蔭で明治以来安う買い叩いて来て、えらい儲けさしてもろた」と、罪な話を聞いて来ました。それで、歳とって暇になって米騒動を調べだしたときは、インターネットの国立国会図書館サーチ(NDL Search米騒動 朝鮮」て入れて見たら、まっ先に出て来たのが『朝鮮史研究』の論文(前述の吉岡論文)と、日本近代米騒動の複合性と朝鮮・中国における連動」井本三夫『歴史評論』459(19887)です。

 

これには明治前期から日本に米騒動が起る度に朝鮮で買い占めて来るので、その度に朝鮮には防穀運動・米騒動が起こったと、詳しい文献も出ています。奥野さんは韓国の放送局からも反応あったと書いていますが、どのような反応だったのでしょうか。また、取材された番組は、日本で考えられているような内容だったのかどうなのか、気になるところです。

例えば吉岡さんは、ソウルで31運動90周年の集会にも朝鮮へ招待されて、そこで米騒動31運動の関係について講演しているので朝鮮でもその頃の歴史を勉強している人なら誰でも知っています。

 

魚津のことしか関心がない人たちは、米騒動といっても基本的な文献を読んでいないのでしょう。例えば、米蔵の会のサイトは、どなたが書いておられるのかわかりませんが、米騒動をもっと調べたい人は次のような本があります」などと教え口調ですが、最初に挙げられている「井上靖、他『米騒動の研究』1959年」に井上靖とあるのは小説家の名ですから、米騒動歴史をフィクションと間違っていることが顕れているかのようです。

 

また、挙げられている他の本も一冊以外は一九七〇年代までの本ばかりです。それ以後も研究が進んでおり、殊に八〇年代以後、富山県の米騒動については随分訂正されたと聞いています。そうした研究書には、サイト制作者にとって困ることでも書いてあるとでもいうのでしょうか

 

実際、挙げられている中で唯一の八〇年代の本が、今は出版社が無くなって買えない『いま、よみがえる米騒動』(1988年)であるのも偶然過ぎますが、それを図書館へ行って読んで見ると、米騒動東水橋町では7月初旬から始まっていて、サイトで書かれている「米騒動の始まり」のように魚津から始まったのではありません。また魚津でも米蔵の会サイトが始まり日としている七月二三日より以前に米騒動が起っていたことが書かれています。

 

そしてサイトに宣伝されている大成勝代さんの真っ赤な表紙の本「浜に立つ女たち」では、その日付や場所などの間違った内容を繰り返しています。学術書ではないとはいえ、このようにインターネットでだれでもが読めるように開示されている情報が間違っているのは困ったものだと、地道に米騒動の文献を読んでいる人たちの間で声があがっています。

米騒動についてのネット情報の現状 関西の図書館虫

discourさんいいブログを立ち上げてくれましたね。私は祖父が米屋だったので、米騒動のことを色々聞かされておりましたから、定年後はもっぱら図書館通いでその関係を読んで来たものです。ただ世代の関係でパソコンが苦手だったんですが、最近息子に少し手ほどきを受けてやり出したら、お会いできたわけです。(関西の図書館虫)

 

1).まず「米騒動ウイキペディア」を見た感想から始めましょう。

 a).出て来たのは意外に、余りにもあっけらかんと古典的なものでした。例えば参考文献として上げられている米騒動の専門書は井上・渡部『米騒動の研究』だけです(大正デモクラシーの通史ものは挙げられていますが)。したがって内容は全く古く1960年以後の進歩が全く入っておりません。つまり半世紀も古いのです。どうしてこれほど古典的!なのか。

 冷害の1993年の一時的不足などが一緒に書かれていることで判るように、現代の米の問題から出発し、米騒動という言葉が有名なので一応調べたから、ウイキペディアに出しておこう、ということなのでしょうか。米騒動自身に対する研究心は低く、井上・渡辺以後の専門的な論文・本が結構あるのを知らないんですね。

 b).それにもかかわらず文献欄に、大正デモクラシーの方は(通史ものですが)2000年代の新しい本を複数、挙げています。その大正デモクラシーの本で米騒動がちゃんと書かれていないからこうなったとも、思えます。知り合いの歴史研究者に聞いたら、賛成だとのことです。

 

 2).次にインターネットに「米騒動」とだけ入れて見ました。そしてわかったのは、次のようなことでした。

 a).米騒動90周年に際し、NHKテレビが扱った「その時歴史は動いた」での米騒動の回の内容についての紹介。例えば、 http://www.asyura.com/0610/senkyo27/msg/858.html    や、http://televiewer.nablog.net/blog/e/20161077.html など。ここには、番組で扱った最近の研究書などもリンクされたり、掲載されたりしています。これは例外的なことですが、テレビが紹介したからとも言えましょう。

 b).大阪・宮崎・福島など幾つかの地方の米騒動について少しありますが、多いのは富山県の人が書いたらしいものです。それがやはり研究の進歩を知らないで書いているらしいので、むかし聞いたお国自慢の種の蒸し返しとしか受けとれません。

 c).そして富山県の人といっても、殆ど一つの特定の町の人がその町についてだけ、学問的論証なしに書いているものです。これでは何度くりかえしても、私ら県外のものは勿論、富山県内の他の町の人にも、おさと自慢の情念しか伝わらないでしょう。米倉の保存でも他の町にもその類のものはないのか、果たして名誉なことだったのか勉強してから言わないと、客観的価値は判りません。

 

広い情報、史料を出しあって、冷静な意見交換をしながら、やって行きましょう。米騒動の全国状況や史実を広く紹介し合うことから始めましょう。

辻隆「一九一八年米騒動の研究史と細川資料」の紹介

 

 書き込みが遅くなってしまいました。始めるにあたって何から書こうかと相当迷っておりました。

 

まずですが、wikipedia 米騒動(1918年)を見ると、米騒動の専門書として参考文献にあがっているのが、井上清・渡部徹『米騒動の研究』有斐閣(1-5巻)本のみという寂しい状況でした。これは、1957-62年というしょうわな時代に刊行されたものです。つまり、今から五十年前にタイムスリップしたような古典的な情報が未だに生きているんだなあとふと悲しくなってしまいました。

 

 それでも気を取り直して、まずはゆるゆるとですが、このギャップを埋めていきたいと思います。いろいろ考えていたのですが、ネットで公開するによい文献がみつかったので、ご紹介したいと思います。

 

辻隆氏が1985年に発表された「一九一八年米騒動の研究史と細川資料」(1-3ページ(4-6ページ) (7-9ページ)という論考です。これは講演(研究発表)という形なので、話しことばでもあり、すっと入っていく文章になっています。

環日本海米騒動研究会の「米騒動通信」第三号に掲載されていたものです。編者の許可を得てここに掲載させていただきます。
 

 

 特に、辻報告では、これまで単に引用するだけのものとして活用されてきた、井上清・渡部徹『米騒動の研究』本(「京都の研究」という表現をしています。)の意義と課題について、はっきり書かれています。また、井上・渡部本刊行のあと、米騒動研究が一段落してしまったのはどうしてか、という点についても触れており、興味深いです。

 

井上・渡部本がどうしてできたのか、その元になった細川嘉禄による細川史料についても、細川とモスクワに亡命していた片山潜との関わりについても詳しく言及している点もわたしたちの関心に応えてくれます。

 

井上・渡部本に続く研究についても触れています。わたしはここが一番興味を惹かれたところです。辻氏もそれに連なる、長谷川博、増島宏氏らの研究です。そこでは、米騒動を次の4つの段階をもつ複雑な形態としてとらえているとあります。

 

第一段階は、前期プロレタリアートによる米の積み出し阻止(津留め)の運動、第二段階は、大都市の近代プロレタリアートによる米騒動、第三段階は、生産現場における、工場労働者や炭坑のストライキなど、第四段階は、農村などいろいろ騒動という形式をとらない状態、と記しています。

 

井上・渡部氏ら京都の研究者は、プチブルジョアージーを中心にした運動だと米騒動をとらえており、その点で、長谷川・増島ら東京の研究の流れとははっきり立場を異にしていると辻氏は主張しています。ここは重要な論点だと思います。この点は、追ってまた別の角度からの論考なども紹介していけたらと思っています。

 

初回は、このくらいにします。